絶望のモラトリアム①

1. 境界線の風景

地元の私鉄に揺られて、僕はアルバイト先へと向かっていた。 無駄に曲がる線路の先から流れる車内アナウンスが、僕を無理やり高校時代へと引き戻す。

車内の風景は、東京とはまるで違う。サラリーマンの姿はまばらで、一番の存在感を放っているのは高校生たちだ。友達や恋人と談笑する者、一心不乱に勉強する者、あるいはスマホに没頭する者。

僕は赤い椅子に深く腰掛け、塾講師の予習のために数学の問題集を開く。大学生が高校の教科書を広げていることに、ふとした恥ずかしさを覚える。数式を読解しようとする僕の思考は、けれど、頭の大半を占めている「何か」に阻まれてうまく動かない。理解しているはずなのに、実感が手元に残らない。 切り替えるのが、僕は少し、場合によってはだいぶ苦手だ。

2. 予感と断絶

一月下旬。秋学期のテストを終え、疲れ切った頭を休めるように窓際の机でぼんやりと一日を過ごしていた。 不意に鳴ったスマホを手に取ると、中学の同級生・中川からのLINEが画面に浮いていた。

「山本のことは聞いた?」

その文字を見た瞬間、嫌な寒気がした。彼から連絡がくることなど、滅多にない。 「どーしたの?」 震える指で返すと、すぐに返信があった。

「俺もまだ信じられないんだけど自殺したらしい。お前山本と仲良いと思うから一応連絡した。」

頭が真っ白になった。 山本浩也。中学からの共通の友人。何も考えられないまま、僕は中川とやり取りを続けた。いつ、どうやって、なぜ。中川は山本の幼馴染でもあった。

3. 未読の遺言

やり取りを終えても、まだ事実は僕の中に浸透していなかった。奇妙な浮遊感だけが部屋に漂っていた。 どうしてそう思ったのかは分からないが、僕は山本が最近送ってきてくれた「小説」を読み直すことにした。

それは、彼が通っていた海沿いの街の高校を舞台に、自分の人生を振り返るような内容だった。 忙しさにかまけて読むのを後悔し、感想さえ伝えていなかった自分に気づく。とりあえず最後まで目を落としてみたものの、どうしたらいいか分からなかった。ただ、山本の親が彼の死を知った時のことを想像すると、涙が止まらなくなった。

中川とのやり取りから、山本の死からそれほど時間は経っていないようだった。 葬式があるなら、行かなければならない。僕は、山本の家へと向かうことを決めた。

4. 錆びた自転車と「影野」

実家から八百メートルほど離れた山本のマンションへ向かって歩き出すと、底知れない怒りが込み上げてきた。見慣れた夜の風景は霞み、現実感を失っていく。 ここは何度も通った通学路のはずなのに、車に轢かれそうな恐怖がつきまとい、頭の中では見えないクラクションが鳴り響いていた。

マンションに着くと、入るのを躊躇い、僕はまず駐輪場へと向かった。 そこには、一台の錆びた自転車があった。高校を卒業して四年も経つのに、後ろには彼が通った高校の青いステッカーが貼られたままだった。 かつて、この自転車と一緒に温泉街までサイクリングに行ったことがある。 「持ち主はまだ生きているのだ」という錯覚を、その錆が否定していた。

胸のざわつきを抑えながら、僕は階段を登った。 震える指でインターホンを押し、僕はこう名乗った。

「テトラです」

5. 静止した部屋と、壺の中の再会

山本の家のインターホンを押し、「テトラです」と名乗った後の記憶は、どこか断片的だ。通された居間はコンパクトにまとまったマンションの一室で、そこには母親と妹、そして「壺」の中に収まってしまった山本がいた。

葬式はすでに終わっていた。つい先日まで同じ空気を吸っていたはずの友人が、いまは骨になっているという事実が信じられなかった。就活用の写真に収まった山本の、認めがたいほどに「現実」な表情を直視できず、僕はお線香をあげることさえ躊躇(ためら)われた。

山本の父親は、泣き続ける僕に「びっくりしたでしょう?」と静かに問いかけた。あえて深刻さを避けるようなその言い方に、父親なりの必死の理性を感じて胸が締め付けられた。あいつは一月中旬、世田谷の大学近くのアパートで自ら命を絶ったという。年末年始に地元で会っていたのは、あいつなりの「最後の別れ」だったのかもしれない。僕は泣きながら、最後に交わした言葉や互いの悩みを、二時間近く話し続けた。

6. 夜のコメダと、日常の残響

山本の家を出た瞬間、形容しがたい無力感に襲われた。幼い頃から見慣れた景色が、自分を拒絶するように立ちはだかる。かつてこのマンションの駐車場で、山本の母親が差し出してくれたアイスをみんなで食べた記憶が、不意に鮮明な色彩を持って蘇った。

帰宅する気になれず、僕は一キロほど歩いてコメダ珈琲へと向かった。そこは高三の頃、山本と二人で毎週のように通った場所だ。あいつと一緒に歩いた道のりに、一人で自分の足を重ねていく。「どうして山本は死んだのだ?」その問いだけが、味のしないカフェインレスコーヒーの中に溶けていった。

閉店時間の二十三時、レジに向かうと、会計をしてくれたのは中学の同級生だった。野球部の主将で、プロを目指していた男。ドラフトにはかからず地元の私大へ進んだ彼が、そこで働いていた。「四月から建設会社で働くからさ、それまで暇なんだ」と笑う彼との何気ないやり取りで、僕はかろうじて「日常」がまだ続いていることを確認した。

7. 本の世界と、踏み切れない境界

山本の死を知ってから三日が経ち、僕の心は限界に達していた。感情の流れるままに破滅へと向かう衝動が溢れそうになり、このままだと自分も死へと引き込まれてしまう予感があった。

事実を家族に伝えることが、山本の死を決定的な現実に変えてしまうようで怖かった。踏ん切りがつかず、僕は高校時代の恩師である国語の先生に電話をした。かつて不登校気味だった僕を支えてくれた先生との対話でようやく決心がつき、父親、そして母親へと事実を打ち明けた。

8. 風景の中に自分を探した日々

二十二歳になった今、振り返ると思う。高校時代の僕は、学校にいる自分が嫌で仕方がなかった。だから、風景の中に自分を探していた。

放課後、地元の海が僕を映していた。城跡にある学校の裏山に登り、山頂から見える校舎を眺めながら「自分はあの場所とは無関係なのだ」と思いたかった。自然が唯一の友達だった。自転車で走る通学路の河川敷、田んぼや山々、太陽が反射する水面。

サボって眺めた広い空だけが、僕に「存在している」という実感を与えてくれた。連なる山々が見守るその景色の中で、僕は必死に自分を繋ぎ止めていたのだ。



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テトラ
人生に迷い高校を不登校気味に。現役で入った大学でも迷いっぱなしで、他の大学に再入学。五年の遅れを経て今年の4月から新卒でエンジニアに。